横井 伸一さん 肝臓移植




「すまん貰うぞ」
なかなか照れ臭くて言えず、やっとの思いを伝えた言葉がこれだった様に思う。そう言って二人揃って手術室へ入ったのは、忘れもしない15年半ほど前の3月11日。そう3.11…

生体肝移植の為の手術

思えばその前の年の9月頃から異変はあった。TDSに家族と行ったのだが、ここはTDLと違いアルコールOKと言う事で昼間から飲んだ。
しかし余り美味くない…
その月だと思うが、仕事中に1時間に3回も腹が痛くなり、トイレに行くも出る物は便では無く鼻水の様なドロッとした黄色い物体。
その後も硬い便は見られず「胃か腸の調子が悪いのか」と思い好きなアルコールを止めた。
1か月もすると調子が良くなったので再び再開。しかし程なくして再び軟便に…
もう一度止めて調子も戻り忘年会シーズンへ突入。ここではそこまで酷くなる事なく年末に。
そして、正月と言うのにアルコールは抑えた。
ちょっと真剣に考えたんだと思う。しかしここでもまだ医者に行く事は考えなかった。
行けば色々と悪く言われるのが怖くて…

私はテニスをしているのだが、12月に入る頃には今まで1時間もやると疲れた感が出て来るのが、30分くらいで出てしまう。冬だって身体から湯気が出るくらいの汗かきで、ボールを拾っている3~5分では収まらないのが常なのに、寒くなってしまい1枚着ないととても耐えれない状態に…
「まあ36にもなったし歳か…」なんて思っただけで…。
年も開けてジュニアのスクールの手伝いに行ったある時に、子供達が「コーチ目が赤い」と…
家に帰り良く見ると赤いと言うよりは黄色かった。
「まさか黄疸?」
これは本当にやばいと思い、再びアルコールを止めた。
(ここで病院に行っていれば少しは違ったか)

そんなこんなで2月5日、いつもは朝飯は食べない私がどうしても腹が空き食パンにマーガリンをぬってパクリ。
ここで異変が…全身の力が抜けどうしようもなくなり、会社に遅れる旨を伝えて1時間後に出社。
次の日も同じく腹が空き前日と同じ様に食べた。するとまたしても同じ症状になり「さすがに無理そうだから医者に行くか」と、会社に遅れる旨を伝えて町内の開業医へ。

そこで、問診票を書き体温を計り採血して待っていると、「エコーがあるから見てみよう」と…
「ここでは採血結果はすぐ見れないから、紹介状を書くので行ってくれ」と言われた。
「明日とか?」と聞くと「いやこのまま行って下さい」との事。
「まあ採血して結果を見れば帰れるだろう」くらいの気持ちで病院へ。

そのまま行ったので午前11時過ぎに着いた。
紹介状を持って行ったわけだから、直ぐには見て貰えるわけもなく待ちぼうけ。
ようやく始まったと思ったら、採血にエコーにCT?にX線?(もう忘れました)…
検査が終わって1時間ほどした後にようやく医師と御対面。
「だるくない?」「いいえ」、「何処か痛いとか…とか?」「いいえ」などと問答して、最後には「こんな元気なはずがないんだけど」と…
「いやいや、これから仕事も行くつもりだし、夜はテニスもあるし」と伝えた。
そうこうしている内に、看護士が来て「病棟に案内します」と…
「えっ入院?」「入院です」「いやいや入院する用意はしてないし車で来てるよ」「それは家族に頼んで」と…そのまま病棟へ。
当然、家と会社に電話はしなければならず、嫁さんに「入院になった」と伝えると当然「はぁ?」と。車も、仕事へ行くつもりだったから、会社の車で来ているから持って行って貰わなければならず。私の家に一緒に住んでた弟に依頼して…
「とりあえずこれとこれと…」と欲しい物を用意して貰い、立派な入院患者の出来上がり。
家族は訳も分からず病院へ来たんだと思う。
当然会社だって仕事は途中なわけで。

次の日、会社に電話する為にナースステーションの前を通ると「何処へ行くの?」「いや会社へ電話を」「絶対安静なんだからベッドの上へ」「いやいやこんなに元気だし、いきなりだから困るから」などとやりとりして…
この時は事の重大さに気が付いてませんでしたね。何より元気に動けるし、気力だって充実しているんだから。

医師と最初のやりとりで「肝臓の数値が3ケタでも深刻に捉えるのに、あなたは4ケタも行っている」と言われていた。
この「4ケタ」と聞いてもピンと来るものは当然なく。
1週間ほどして数値の変化が無いと言う事で医師に呼ばれた。
何でも血を交換するらしい。とは言っても「血漿交換」と言って透析とは違って、一部の成分を分離して新しい物と交換するらしい。
何かここで「そんなに悪いのか」とがっかりして、これまで願掛けの意味もあって、入院以来止めていた酒と煙草を…
(まあ肝臓が悪いんだし病院なので酒は無理だから煙草ですが)
夕食後分煙室へ行って吸うと、まあクラクラして10分ほど立てませんでした。
次の日の朝食後も吸ったのだがやはりクラクラ…
嫁さんも来て透析室へ行き、皆さんと同じ様になるのかと思いきや機械が違う事に気が付きました。
「時間が掛かるから過ごし方を何か…」と言われたけど困りました。
4時間くらいかと聞いてたけど、結局20時過ぎ6時間は掛かった気がする。
途中、スピードを上げるとどうしようもなく痒くなり、皮膚が蚊に血を吸われた後のように膨らんできてどんどんつながって行く(全身蕁麻疹?)。これが一番大変だった。
3日間、10何単位かやり「全部入れ替わったと思う」と言われ。
初日に悪い成分として溜まって言った物の色との違いに驚きました。

しかし、その甲斐も無く肝臓の数値は800程度…

ここで医師から「重大な話しがある」と嫁さんも呼ばれた。
医師は「もうこのまま経過観察しても良くならないのでは?」「いや、たぶん駄目だから移植するしかない」「調べたけど、脳死移植の順番待ちは55番」「もって3か月、日本で順番を待っていられない」「とは言っても、おいそれと海外で出来る物でも無い」と…
私はここでようやく事の重大さに気が付く事になる。
本当に、頭を何かで「ガーン」と叩かれたようになった。
私は、もうこの時点で死を覚悟しました。「やり残した?事は数あるけどこれも仕方ないか」と

医師が「紹介状を書くので京大へ行け」と言うので誰だったか(忘れてしまった)家族が行った。
向こうで「移植の順番はまず親、だけど年齢が高いから無理」「次は子供、だけど小学校前だから無理」「次が兄弟、だけど妹は結婚しているから無理」と
ここで弟が「じゃあ俺が」と二つ返事で言ってくれたらしい。
この話しを戻って来て聞いたのだが、この時は「良いのか?」「仕方ない」と言うやり取りだけで終わった。
3月4日にまず私が手術をする大阪医科大学へ行き、何日後かわからないが弟も来た。
向こうでも数値は悪くなったようで血漿交換を何単位かやった。
向こうでも色々と検査したように思う。MRIもやったのかな?(これは移植後かも知れないけど)
何曜日か忘れたけど一度弟の病室へ行ったと記憶している。
この時も「良いのか?」と聞いた気がする。

そして当日、手術前に弟の所へ行き「ありがとう」と言おうと思ったのだが、準備が色々とあり弟の部屋へ行く事が出来ず「ありがとう」と伝えられず…
8時半かな?
手術室へ行くのにストレッチャーに載せられ、手術室の前でようやく弟と会えた(並んだ)。
そこでもすぐには話せずに、いよいよ扉が開いて中へ入る時にようやく勇気?を出して、冒頭の言葉を掛けた…。
これだけしか言えなかった…

実は、この時でも心の奥には「腹を開いたら手術はしなくても大丈夫」と最後まで祈っていたんだけど…

後で聞くと、私が手術室から出て来たのは日付も変わって3時頃とか…
私は覚えていない(はっきりと意識があるのは3/15日)のだが、医師が色々と質問した事にはちゃんと答えないし、色々付いている管を外そうとしたらしい…
その為か医師に「もう出て貰うか」と言われたらしい…
ICUから出れても直ぐには歩けるわけも無く個室で寝たきり。
後で聞いたのだが、弟は3日後くらいから「歩け歩け」とせかされたらしい。
「まだ痛いんだけど」と、私が部屋から出られて会いに行った時に怒ってた。

私は、手術の説明は今でも記憶しているけど、一番心に残っているのは「肝臓移植(?)して冬季(?)オリンピックに出た人が居る」と言う言葉である。
この言葉が無かったら、今こんな生活を送れているかわからない。
しかし、2週間以上のベッド生活から初めてベッドから立つ時に立つ事も出来ず、部屋の外へ出れるようになり階段を5段登った後に降りれなかった。この時はさすがに「大丈夫だろうか」と思った。
でも医師は「最初はそんな物ですよ」「すぐに慣れます」と
とにかく心配ないように言葉を掛けてくれたんだと思う。
確かに、「俺は失敗した%には入らない」「すぐ元に戻る」と思っていても、どこかには弱い心もあったんだと思う。
一応「気楽な性格」と思っていたのだけれど…

1か月ほどで退院したけど、しかし帰った翌日に熱が出て…
向こうでは「地元の病院でこれからは診て貰える」と帰ったのだが、いきなり翌日から地元の病院へ入院。そこで医師は「まだ戻るには早いのでは…」と言っていた。
熱は程なくして下がったけど「CRPの値が下がらないので帰れない」と、なかなか帰宅する事が出来ず暇な毎日だった。
とにかく体力回復と言う事で、階段の上り下りは食後2時間後と17時にやる事にする。
ラケットも持って来て貰い屋上で痛くない程度に素振りもした。

1か月ほどして退院出来たが「仕事はまだ」と言う事で、またしても暇人になった。
家のワックスがけや雨戸の掃除など、結構傷口が痛むけど何かしていないと居られなかった。
いよいよ体力回復の為に走ろうと考え外へ出る事に。

ここからが大変だった。
走ろうと一歩踏み出したかったのだけれど足が出ない…
歩く事や階段の上り下りは出来ても、走るだけの足の筋力が無かったのか出なかった。
まず早歩きで1分。ここから始めるしかなかった。
「早歩き1分、歩きで4分」ここから始める事に。
これは1時間の中で行ったのだが、「早歩きで3分、歩きで2分」となった頃から、小走り程度なら足が動くように。
「小走り4分、歩きで1分」が「小走り5分、歩きで1分」…と増えて行き、小走りがそれなりのスピードに上がり、「30分走って、1分歩き」までに。

7月に入りいよいよ弟は仕事に復帰し、私はジュニアのスクールに顔を出すようになった。
そして、私も会社からPCを持ち込んで自宅にインターネットを引き少しずつ仕事をするように。
夏休みの工事の時は私も参加しました。
ただ、この頃はまだインシュリンを打たなければならず薬も数は多いし大変でした。
当然マスクや手洗いやうがいも細心の注意を払って行動。
9月に入ると、自宅では無く会社へ出社(週3)するようになり、12月になってインシュリンを打つ必要が無くなり、ほぼ普通に出社したように思います。

週3出勤の頃でも、自宅では走っていたんだけど、だんだん膝が痛くなるようになりそのうち辞めてしまった。
今思えば体重も増えて行ったからだと思うけど…

年が明けて正式に出社して、ようやく元の生活に戻れたと思う。
ここでマスクも外し、見た目は普通の生活に。
それから15年…
去年50歳になるのを機に、移植者協議会に登録しスポーツ大会に参加する事にしました。
(その前の年に「移植者スポーツ大会」があるのを知ったんですが、実は大会は終わってました…)
また日本テニス協会に登録もし、ベテラン大会に出場する事に。
「賑やかし」のつもりが、ついつい今年も出てます。
嫁さんや周りからは「やいのやいの」言われてますが、何か辞めたくなくなってしまい…

子供達が社会人になり子育てが終わった?今、嫁さんには申し訳ないけどテニスのついでに色々行きたいんだけど…ね

今は、弟は外で暮らしてる関係で、まあほとんど口を利かないけど仕事で海外へも行くようで頑張ってる。
移植者協議会からアンケートが来た時は身体に付いても聞いたけど、まあ照れ臭いのだろう多くは語らなかった。
私の会社も海外へ行くようになり、本来なら私も行く必要があるのだけれど、他の人に行って貰ってる。
行く土地や日数に因っては行ける所もあるのかな?とは思うけど。

あの日「じゃあ俺が」と、弟が2つ返事で移植に同意してくれなければどうなっていたか?今ここに居るだろうか?手術が失敗していたら?手術後が…だったら?とあれこれ考えは尽きないが、とにかく私は今を目一杯過ごしている。
あの日の言葉が無ければ…

それに対しては、余りにも情けない言葉だった「すまん、貰うぞ」は…
この場を借りて「ありがとう」と言う言葉を改めて伝えたい


「ありがとう」


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